コロンビア第2の都市メデジンは、人口約256万人、コロンビアで唯一公共交通機関のメトロを有する最先端の都市です。
コロンビアに旅行する人の多くが訪れる街で、出会った旅人の中で最も気に入った街にメデジンを挙げる声が多く聞かれました。
2023年9月から1年間の世界一周ひとり旅をしてきた私が、メデジンで絶対におすすめしたい観光地「コムナ13(Comuna 13)」の魅力を解説します。
コムナ13は現在ストリートアートやダンスで人気の観光地となっていますが、ほんの少し前までは「最恐のスラム街」と呼ばれていた場所です。
この旅で私はメデジン出身の友人を訪ね、彼女が見つけてくれたガイドさんに実際に街を歩きながらコムナ13の歴史を説明してもらいました。
ガイドさんは、なんとコムナ13に住んでいたことがあるという方。
現地の雰囲気や彼の経験を交えた話を聞くことができ、貴重な体験をさせてもらいました。
この記事ではコムナ13の歴史と現在に至るまでの変革をできるだけ詳しく紹介します。
にぎわう観光地
コムナ13はストリートアートで埋め尽くされた壁やヒップホップダンスのパフォーマーたちで活気あふれる観光地です。

急斜面にあるエリアのためエスカレーターが設置され、各階に様々なショップや飲食店が所せましと並んでいます。
壁面を埋め尽くすカラフルなアートやヒップホップのダンスパフォーマンス。
少し歩くだけでもきらきらと活動する若者の様子が見られます。
こんな活気のある街が、かつて南米最悪の治安と恐れられたスラム街だったと想像できるでしょうか。
有名なエスカレーターの場所はこちらです。
コムナ13の壮絶な歴史
ガイドさんが話してくれたコムナ13の歴史を紹介します。
スラム街の形成
コムナ13は1980〜90年代に壮絶な戦争を経験しました。たった30~40年前のことです。
始まりは、1970〜80年代に土地を追われた1,500もの家族が居場所を求めてさまよい、コムナ13と呼ばれるこのエリアの斜面に家を建てて住み始めたこと。

もともと農業を営んでいた彼らは、住む場所も仕事も奪われてしまったのです。見知らぬ土地で新たな商売をする知識も家を建てる技術もなく、生活は困難を極めました。
貧しい材料で建てた家に不衛生な水、電気は盗んだものを使っていました。
そして、元の住人からも「侵入者」と差別されるようになりました。
ギャングの仕事は、そんな苦しい状況にいる彼らにとってとても魅力的に感じられたのです。
麻薬カルテルの通り道
ドラマ「ナルコス」で有名な麻薬王パブロ・エスコバル(Pablo Escobar)。
彼は1960〜70年代にコロンビアでコカインの売買を主要なビジネスとする麻薬カルテルを形成します。
傾斜面に所狭しと家が並ぶ貧しいコムナ13は、麻薬を売買する際の重要な移動ルート上に位置していたのです。
コムナ13の貧しい家庭環境を背景に、お金を目当てにギャングに仲間入りする若者が後を絶ちませんでした。
パブロに忠誠を誓うギャンググループが形成され、彼の死後グループは決裂し対立しあうようになりました。
こうして複数のギャングの巣窟となったコムナ13は、若者が銃やライフルを持って歩き回る危険地帯になってしまったそうです。
そして、ギャングの抗争を止めるための非正規軍(Paramilitaries)やゲリラ反乱軍(Guerrilla)が入り交じって攻撃しあう最悪の状態に陥ってしまったのです。
コムナ13の複雑な路地や街並みを知り尽くす若者たちは、恰好の戦闘員となりました。
こうしてコムナ13は、角を曲がると人が亡くなっているような、南米最恐のスラム街となってしまったのです。
犠牲になる民間人
民間人を含む無差別一掃作戦、オペレーション・マリスカル(2002年5月)
ギャングの抗争を止めるため、政府や軍がコムナ13に兵士を送り込みギャングを一掃する軍事作戦「オペレーション・マリスカル(Operation Mariscal)」が実行されました。
作戦の目的は、地域のギャングを排除し、治安を回復することでした。
2002年5月21日の朝3時から約12時間を要し、戦車やヘリコプターをはじめ、何百人もの兵士が派遣されました。
この作戦の結果、コムナ13から武装グループが一時的に排除され、地域の治安は一時的に改善しましたが、犠牲になったのはギャングだけではありませんでした。
「オペレーション・マリスカル」はギャングを一掃するための作戦と謳いながら、犠牲になったのは多くの一般人でした。
コムナ13のギャングには未成年や若者が多く含まれ、一般人と区別がつかないという問題がありました。
そのため、住民を含め無差別にギャングとみなして取り締まる作戦が取られたのです。
重軽傷35人、死亡15人、未成年も含まれていたそう…。
ガイドさんはこんなエピソードを話してくれました。
ある少年がコムナ13内にある自宅にいたところ、兵士が踏み込み少年を銃撃しました。
少年を見つけた兄が少年をかつぎ病院に向かおうとしましたが、兵士はギャングの逃走と捉えたのか、兄も撃ってしまったのです。
それを見た近所の女性が白いTシャツを振って抵抗の意思がないことを兵士に主張して、ようやく少年たちを助けました。
この時女性が振った白いTシャツになぞらえて、暴力反対の象徴として白い布を振る運動が起こったのだそうです。
自宅にいただけの少年や、助けようとした兄弟をもギャングとみなして銃撃する兵士。
どれだけコムナ13の治安が乱れていたのかと思うと、唖然としてしまいました。
オペレーション・オリオン(2002年10月)
2002年10月16日、今度は2日にわたる「オペレーション・オリオン(Operation Orion)」作戦が実行されました。
これは新しい大統領主導で行われ、目的は非正規軍の支配を終了することでした。
この作戦により、数百名のギャングと思われる容疑者の確保と20人の人質の解放に成功しました。
ただ、この作戦でも多くの罪のない一般人が殺害されました。

軍事作戦のその後
これら2度にわたる軍事作戦により、ゲリラ反乱軍は一掃され、コムナ13の平和は取り戻されたと思われました。
しかし、それ以降このエリアを支配したのは非正規軍(Paramilitaries)でした。
彼らは2年の間、ゲリラ反乱軍に手を貸したたくさんの人々を裁判にかけ、その多くが有罪または死刑となりました。
2003〜2004年の間、200人以上の人が謎の失踪を遂げたり、死体となってゴミ集積場に捨てられたりしたそうです。
平和になったように思われたコムナ13では引き続きギャングがエリアを支配し、人身売買や殺人などの法律違反の行為が行われていました。
2006年、市長がついにコムナ13に多額の投資をすることを決め、住民たちの生活改善を目指して動き始めたのです。
現在の姿
2008年にはケーブルカー、2011年にはエスカレーターが作られ、急斜面のコムナ13の生活が劇的に改善されました。

住民たちはコムナ13の歴史や改革への思いを込めてストリートアートを描くようになりました。
また、コムナ13や自分たちの進化を願ってヒップホップの文化が根付いたそうです。
現在はストリート文化の中心地として人気の観光地コムナ13。
カラフルで活気あふれる街からは想像できない壮絶な歴史がありました。
コムナ13で感じたこと

肌で感じたこと
ガイドさんが言うには、コムナ13の治安は大幅に改善されたとのこと。
でも私の肌感覚で言うなら、まだまだ急斜面に建つトタン屋根の家は多いし、入り組んだ路地は言葉で説明できない危ない雰囲気がありました。
日本と比べてはいけないかもしれないけど、手放しで安全とは言えない雰囲気が残っていました。
この壮絶なギャング抗争がほんの30年前まで起こっていたこと、未成年や若者がその真っ只中に巻き込まれていたこと…。
ただただ信じられない思いでした。
ドキュメンタリーで見た若者たち
ツアー後に、友人がYouTubeでコムナ13の軍事作戦の後の様子を捉えたドキュメンタリーを見せてくれました。
そこに映る抗争に巻き込まれる10代の男の子たち。15~16歳の女の子たちがギャングの子を妊娠している様子もありました。
特に印象に残っているのは、銃をいじっていたら暴発して片手を失ったという少年。明日生きていられるかもわからない状況で、手を失うくらいなんとも思っていない様子でした。
クスリのせいで顔は終始にやけているのに、明日への希望がまったく感じられない目をしていたのが印象的で、今でも忘れられません。
「若者に「やること」を与えるのが治安改善の第一歩」というガイドの言葉を思い出します。
ストリートアートやダンスに夢中になる子どもたちのように、人生に「やりがい」を持つことが重要なのですね。
コムナ13を彩るたくさんのストリートアートやダンスにそんな意味があったのかと、深く考えさせられました。
一般的にコムナ13をまわるツアーではここまでの歴史的背景の話は聞けないそうなので、本当に貴重な体験ができました。
もしこのガイドさんに興味がある方は私のインスタグラムでご一報ください。

まとめ
この記事では、コロンビア、メデジンの人気観光地コムナ13について解説しました。
コムナ13では、ストリートアートやダンスだけではなく、ぜひその歴史についても学んでみてください。
今回は以上です。
コロンビア旅行のルートについても知りたい方は、下記の記事も参考にしてみてくださいね!

Have a wonderful day 🙂
may
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